昭和41年07月19日 夜の御理解



 今日、お風呂入りましたら、栄四郎がもう先に入っとりました。してから、それこそ、もう、なにげなし、なにげないふうで言うんですね。ああ、またお父さんに悲しませねばならん日が近づいて来た。っち言うわけなんですよ。なしてやちゅうたら、明日は、つうしんぼもらう日。なして、そげん自身がないとねっち言うたら、自身がないというわけなんですね。そうけども、今度からはいっちょほんとに頑張るっち。て言うてその、まあ明日からのつうしんぼ心配してからですね。
 もう、明日からの事をちゃんと言い訳しよるんですよね。悲しませるその、また日が近づいて来たちゅうそういうふうにまあ言うわけですね。もうありゃよかですもんね。ですからもうほんの自然にその言ってのかすんですね。その言わば言いにくい事、難しいこと、しかも前の日からですね。だから、お父さんはあんた別に悲しみもしないけれども、やはり、自分の為だからね、勉強するのは。
 言うてまあいろいろ、勉強の話やら信心を、言うならまあおりまぜていろいろ話さして頂いて、いろいろあの人が私の背中流してくれてから、で私あの人を洗ってやるんです。そん時にね、こういうようなことを言うんですね。なるほど私いっつもあの、背中だけ洗ってやるからもう他んとこはあんた自分で洗わないかんよ。言うてから洗ってやるんですけど、今日は、あの、お父さんは、こげなふうなところがあるねってこう言うんですよ。何、どういうところがあるって言うたら。
 あのいっつもがお父さんは、背中だけ洗うてやるちゅうてから、もう頭から足から手までみんな洗うてしまうとやろうが。僕は自分で洗うと思いよるばってんお父さんが洗うてしまうもんじゃけん。ちゅうごたふうなことを言うんです。それは私確かに、確かにそうなんです。私初めから、んならあの背中だけ洗ってやろうと思いよるとです。ね。けどもついついやっぱ汚れとるもんですから、頭も洗ってやりゃあ、指も手も足も、言わば洗ってやるわけなんです。
 もう私の信心の教導にはこういうところがあるように思うんですね。もうこのくらいのところでとこう、自分で思ってるんですけれど、言うなら噛んで含めすぎるようなところがございましょうが。私のご理解に。それで返ってその、自分で洗う事をようしないっていったようなことで、信心の稽古がほんとに出来んのじゃなかろうか。ちった含みのある。または、ああ、あれから先はどういう意味だろうかと。っていうようにです、むしろ説明不足のようなところがあるのがかえって。
 確かに私もそう思いよるんです。ね。もう、背中だけしか洗ってやらんぞと思いよるんですけども、ついついその私のこりが、まあ、性格的な、まあ欠陥っていやあ、欠陥でございましょうけれどもです。ついその、手も足も洗うてしもうてやるわけなんです。ですから、これではなるほど、自分にいつまでたっても洗いながら洗えん。その栄四郎の事の中からですね、いろいろ教えられる事がございました。明日の、いわゆるお父さんを悲しませる日が近づいて来たというような事なんかでもですね。
 でもう私が思うのによし今度のは、あのほんとにそう思っておるのじゃなかろうか。というふうな気がしたんです。もう僕は今度からはほんとに頑張るつもりでおるといったようなことを言ってるんですけどね。ほいでもうあの人が言う事の中にいつも、私はその私自身教えられる事があるんですけれど、ほんとに私はこう、皆さんの信心さあ磨く事だ、改まる事だと言いながらですね、それを私が磨いてやろうとしておる。
 私がもうほんとに、噛んで含めるように、こうするもんだ、ああするもんだ、こうなかきゃならんのだとあまりにも行き届き、言わば行き届きすぎるような感じがある。皆さんもそこをひとつ感じてくださってですね、一つ本気で、そこならそうであるほどにです、おかげ頂いてもらわなければならん私もなるほどまた、教導の上にも一考しなければならん事があるだろうと思うですね。
   どうぞ。